四十七士 大塩平八郎
臥薪 嘗胆幾辛酸
一夜 剣光雪に映じて寒し
四十七 碑 猶ほ主を護る
「仮名手本忠臣蔵三段目」歌川国輝 |
「吉良邸討ち入り」二代目山崎年信画 1886年 |
作者の大塩平八郎は、江戸時代後期の武士で儒学者。この詩は、歌舞伎や文楽などの題材としても人気の高い「赤穂浪士」について詠んだものです
元禄十四年(1701)3月14日、播磨赤穂藩(兵庫県赤穂市周辺)三代藩主の浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が、高家・吉 良上野介(きらこうずけのすけ)義央の仕打ちに恨みをつのらせて、江戸城「松の大廊下」で彼に斬りつけました。浅野内匠頭は即日切腹を命じられましたが、家来である赤穂藩の浪士たちは、これが「喧嘩両成敗」の原則に反するとして、吉良上野介も処罰を受けるべきと主張します。が、認められず、元禄十五年(1702)12月14日深夜、大石内蔵助率いる四十七名の赤穂浪士が、吉良上野介邸に討ち入りました。事件後、彼らは切腹に処され、主君と同じく東京の泉岳寺に葬られています。
振付例としては、前半に大石内蔵助の合図で吉良邸に討ち入る赤穂浪士たちを演じます。後半は標的の吉良公を見つけて遂に首を落とし、主君が眠る泉岳寺の方向に向かって深々と礼をし、主君の無念を晴らしたことを報告します。